昭和49年05月03日 朝の御理解



 御理解 第71節 「ここへは信心の稽古をしに来るのである。良く稽古をして帰れ。夜夜中、どう云う事がないとも限らぬ。おかげはわが家で受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来る訳に行かぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」

 「まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ」と云う事は、お参りが出来る時と言う意味だと思うですね。所謂まめと云うのは健康な時と云う事でしょうけれども、お参りしようと思えばなんぼでもお参りして信心の稽古の出来れる時には参らずに、何か困った事が起こったり、それこそ尻に火が点いた様になってからお参りをして来る。そう云う所を教えておられる。言うなら常日頃まあ言うなら、平穏無事でおかげを頂いておる時にしっかり信心の稽古をしておけと。
 ですから都合の良か時だけ参れと言った様な安易な物ではない。それでは稽古が稽古になりません。ここでは「信心の稽古をしに来るのである。良く稽古をして帰れ」とか「まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ」とかと。所謂稽古と云う事を力説されておられる訳です。だからその稽古をしなければ駄目です。なら参って来たから稽古になっとるとじゃないです。話を頂いたから稽古になっとるとじゃないです。どうでも一つ本気で稽古をしとかねばなりません。な
 ら信心の稽古とはどげな事せんなんじゃろうかと、言うならば稽古をする術も判らないと言う人がお参りして来ると云うのであっては、稽古になるはずはありませんですね。是は何でも同じですけれども、勉強でもそうですね。勉強のし道が分からん人があるです。やはり一つの勉強にでも、段取りとかその焦点とかと言った様な物が、まず確立されなければ出来ません様に、信心もね信心の稽古とはと云う所を一つ、はっきり把握してそして本気でここには信心の稽古に通うて来ると云う事にならなければね。
 ただあの言葉お願いせんならんから、だからのお参りと云う様な事では一向稽古になりません。言うならばまさかの時に役に立ちません。夜夜中何時どう云う事が起こるとも限らん。そう云う時に言わば狼狽えたり、それが信心のおかげの実が結ばない様な事では詰らん。昨日「やつなみ」と言う本をこのお道の、金光教鶴見教会「人の幸せと世のお役に立つ金光教鶴見教会」と言った様な事をです。まあスローガンにした、生き生きとしてご比礼を頂いておられる教会です。
 こんな立派なご本が毎月出る位ですから、大きな病院をいくつも経営してあります。それこそ偉大な病院をいくつも経営してあります。それが教会長が亡くなられて、今の桜井と言う先生、ここにも一遍見えました。お道の本にここの事を評して書いておられましたが、「もう神徳溢れるばかりの教会だ」と書いてありました。その先生ですがもうこの昨日参りました本を読まして頂きますと、もう宗教と云う宗教は例えばお光さん的な、本部にまで参って色々研究されておられる。
 もう宗教と云う名が付く本はどれだけ、読まれたか分からん程しに自分では乱読したと言っておられますけれどもそのしておられる。そこそこに成程素晴らしいものが、その宗教宗教に必ずやっぱあるんだと。実にユニークな布教方針でどんどん信者を獲得しておると言う宗教もいくらもある。けれどもそれこそね回りしこ回り研究するしこ研究し、読むしこご本も読ませて頂いて結局金光教その偉大さ、金光教と言う信心の素晴らしさを只ただ深く解らして頂くばかりだと、言うておられます。私もそれを感じます。
 昨日の御理解に本当にお釈迦さまでもキリスト様でも、説き得なかった事を説いておられる。御理解三節ねあの事を申しました様に、そう云う素晴らしい宗教がです。金光教がです。どうして発展しないかと云う事をもう無念で無念で、残念で残念でたまらんと云う事を、もう各所にその言葉を使っておられます。そう云う素晴らしい内容を持っておる信心が、またそう云う偉大な教祖を頂いておる金光教がどうして発展しないのかと、「是はもう残念で残念で、無念で無念で」と書いてあります。
 少しちょっと読みましょうか。「こんなに具体的な、現在の人々にぴったり合う宗教の金光教がどうして盛大に栄えて行かないのか、歯痒い様に思い、残念で残念でなりません」と。兎に角どこのご本部、どこの本部と言った様な所にお参りしても、非常に親しみがある。と言うんですね。所が金光教では、親しみがない。何かエリート意識が強過ぎるのじゃないか、本部辺りで、初めてご本部に参ったと云う人達にです。誰かが話し掛けたり、寄り掛けたりする人が一人もいない。
 他所の本部に行っては、誰かがにこやかに寄ってきて、「どちらからお参りでしたか」と言った様にして話し掛けて来て、もうそして長い間のお付き合いの様に、本部へ行ったら、どこへ行ってもです。それがあるのに、金光教はそれがない。と言った様な事を一つの発展しない理由と言う風に書いてありますね。エリート意識が強い。成程、それもそうかも知れませんけども、私は思うのにです。生き生きとした御比礼、生き生きとしたおかげが段々頂かれん様になったからじゃないかと思うですね。
 どんなに参り難い所であってもです。例えて言うならば、どんなに無愛想であってもです。私はおかげさえ頂くならね、人はなんぼでも集まって来ると思うです。そう云う物が欠けたと云う事は、例えば今日の御理解から行くとです。本気で信心の稽古をしようとする人がなくなったと云う事です。私はこの桜井先生ならずともです。桜井先生、この桜井先生ですよ。金光教鶴見教会の桜井先生です。
 今日私は『三味線の稽古をする時に初めに使いますんですけれども、長唄なんか稽古する時なんか、木の撥(ばち)があります。木で作った撥普通骨とか象牙で出来てますよ。あの木の中に重い鉛を入れた、二十匁とか二十五匁とかと云う様な匁付きの撥があります。あの撥を頂くんです。どう云う事だろうかと思ったら、撥と云う事はやはり、罪とか罰とか云うあの罰に、罰被っとると云うあの罰に通じる事だと思うです。木の撥と云う事は、私は心と云う事に感じる。心に心に呵責を感ずる心に罪を感ずる。
 私は金光教の信心はです。余りにもお詫びに撤すると言った様な所が、却っていけんのじゃないかと、今日は私は改めて思うんです。と言うて人間だからこん位な事は当たり前と云う様な横着な心でも勿論いけません。もうお詫びに、本当にそれに撤すれば同じですよね、実を言うたら。お詫びに撤すれば、「詫びれば許してやりたいのが親心」と仰るのじゃから、お礼を申し上げる。真からお礼を申し上げる。お礼お礼で、言うならお礼のおかげでおかげを頂いておる。
 またお礼参りしなければおられないと云うのですから、おかげに継ながる。お願いだってそうです。一心不乱の信心から願いが成就する。だから同じですけどもお詫びならお詫びに撤し切らないでのお詫び。ただ自分で自分を苦しめておるだけの、そう云う例えば信心が多い様な気がしますね、金光教の信者の中には少し信心をし始めますと、成程自分が見え出します。自分のお粗末さ加減が判って参ります。
 ですから本当に私の様なと云う謙虚な姿勢は素晴らしいのですけれども、そんならです本当にその詫びが適う為に、なぜ改まらんか私はそう言いたいです。詫びると云う事は自分が詰らない、その詰らない所をなぜ向上しないかと、なぜもう一歩前進しないか、只詫びておるだけでは、何時まで経ってもおかげにならん。ただ自分の心に呵責を感ずるだけです。是ではただ自分で自分をただ苦しめるだけです。詫びねばならない物を自分の心に感じたならば、そこを改めて、もう一歩前進しなければいけない。
 そこからいわゆる詫びに撤すると云う事はです。ただ、「すいません、すいません」と云う事じゃなくて「すいません。是からは改まりますから」、そこに詫びれば許してやりたい親心が現われて来る時に、おかげに継がるのです。私は今日その木の撥を頂いて、そう云う風に思いました。ただ詫びとるだけではいけません。詫びると云う事は必ず改まると云う事が、私は伴わなければならない。そう云う事がです私は本気で信心の稽古をしておる人達の姿だとこう思うんです。
 そりゃ自分が解れば解る程、お粗末だらけです。ご無礼だらけです。ですからそのご無礼である所は、ご無礼でない様にそれから私は稽古をする。その稽古の道を体得して行くと云う事が、言うならば信心の稽古だと思うのです。そこを稽古して行かなければならん。この中に桜井先生が言っておられます。「金光教の信心は生温い」と言っておられます。お湯のねお湯が熱くもなければ冷たくもない。
 まあ私が言うふうたらぬくいと云う意味ですね。例えばどんなに「あの人は良い人だ」と言うても、「仏様のような人だ」と例えば言うても、それでおかげを頂ける道ではないです金光教は。おっとりとして、品ようしておると云う事だけで、自分はもう悪い事もせんと言った様なだけでね、人から「あの人は良い人だ」と言われるから、おかげを受けるのじゃないです。
 言うなら善人必ずしもおかげを受けると云う事ではないのです。むしろ悪人と言われる様な人がです。本気で自分の悪人を悟って、本気で信心の稽古をさして頂くと云う事になりゃ、むしろそれの方がおかげを頂くです。「廻りが大きければ大きいだけ、おかげが大きい」と言われるのもそれです。廻りの自覚が出来る。そこから本気での信心が出来る。そこで却って力が出来、お徳を受けると云う事。「私だんもう信心せんでん、悪いことせんから」とおっとり構えておる様な信心ではおかげにならんです。
 それは丁度、弓を持って的を射るのにです。弓をこうほんのちょこっとばっかし引いて、どんなに向こうを狙っておっても、そこまで届きもしませんよね。やはり弓は満月の様に引き絞らなければいけない。また引き絞っただけでもいけない。キチッと的を目当てにしてです。それが百発百中当てられる様な稽古をするのです。初めからそんなに名人、上手と云うのがおるはずありません。ですからその焦点的と云うのを目指してです。最近ここでは生神とこう言われる。
 生神と云う言うなら焦点的を目指して私共がです。どの辺の所まで的中するかと当たるかと云う稽古をする。ただ無我夢中にならこう満月に引き絞って、只こうやって矢を放つと云うだけではいけません。どげん一生懸命毎日毎日お参りしよると、云うただけではいけませんと云う事です。けれどももう親先生の言われる事は判っとる。教祖様の御教えは、全部空暗記した。と取りすましておっただけでは是は愈々つまりません。
 やはり一心に言うなら、満月の様に引き絞るその力と、それから的をはっきり焦点においての、稽古でなからなければならん。そう云う例えば夜よなかいつどの様な事が起こっても、驚かんで済むと云うか、それをお影にしていけれるだけの信心。其れを喜びで受けられるだけの、心の修行と云う物がなされておらなければならん。そう云う稽古を本気でする人が、金光教の信者の中には「ただ素晴らしい、偉大な教祖であり素晴らしい御教えだ」と、言うておるだけではです誰も付いては来ない。
 それこそ桜井先生じゃないけれども、それでは無念残念であります。日々の言うならば生活の中に、例えば朝参りをなさる方は朝の御教えなら御教えを終日、その御教えを以て焦点とさしてもらい。本当の焦点はいわゆる生神を目指すと云う焦点に、様々な問題をその御教えを通して頂いて行く稽古。初めからスキッとした物が頂けるはずはありませんけれども、ぎこちないですけれども、それが段々スッキリして来る様になる所から、スッキリしたおかげを受けられる様になると思います。
 「ここには信心の稽古をしに来るのである。良く稽古をして帰れ」とこう云う、だからお互いの稽古の焦点と云う物が、日々はっきりしておるだろうか、生神を目指さしてもろうて、今日の御教えを頂いて、今日の御教えを通して、生神への精進、そういう信心の稽古をする人があるなら、その人の周辺にはです。言うなら、生き生きとして御比礼、生き生きとしたおかげが立ち始めるでしょう。それに、なら、皆が付いて来ん訳には行けない程しのおかげが頂けると思います。
 桜井先生は金光教の信心をこう云う風に、「これは大方の金光教の先生方の意気が上がらないからか、教風で引っ込み思案になってしまい。先生に右へ習えと云う事になり、至極従順な信徒になって、元気や、積極的な意気が少ない人々が沢山見られる事は残念無念に存じます」と書いてあります。言われると確かにそうですけども、私は金光教の信心は、本当は消極的ではないと思うんです。もう超積極的だと思うです。金光様の先生たる者です。例えばなら御結界、畳み半畳に座り込んだら最後。
 どこに病人がおりなさるけん、話しげに行こうと言った様な物ではなくてです。それこそここに、言わば座り抜かせて頂く、それはある意味においては、死を覚悟しての座り込みであります。ですから、御取次を願う者、もうそれこそ百発百中おかげは与えられる程しの、私は云う物でなからなければなりませんし、言うなら命懸けと云うのですから、消極的所か、もう実に積極的積極的と言うても。ただ体を動かすだけの積極的なものではなくてです。もう真からです。
 それこそ死んでもままよと云う位の、言うなら積極性を持ったのが金光教だと思うのです。そこまで現わされていないと云う事を、金光教の今の金光教に私は見るですね。そこの所の稽古をしようとする先生方が少ないから、従順な例えば先生信者と言われるだけであって、打てば響く様な物が感じられなくなって来ておるのだと言う風に思います。同じ稽古をすると言うても、そう云う信心の稽古でなからなければ値打ちはない。本当に生きたおかげが伴うて来る信心の稽古でなからなければならないと言う事です。
   どうぞ。